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戦後の主婦が初めて使った電気釜の思い出  ◆新三種の神器
新聞、テレビ、ラジオ、書籍、インターネットなど、
さまざまなメディアから,
あらゆるたくさんの情報が氾濫しています。
しかし、私たち意外と知らないことが多いものです。

三種の神器(さんしゅのじんぎ)と言う言葉をご存知でしょうか。

日本の国の始めのころ天皇が地位を継いだ時に渡される三つの宝物、
「鏡」「剣」「玉」のことでした。昭和20年8月15日の終戦後しばらくして世の中が少し平静を取り戻したころ、最初の「家庭電化ブーム」のときにどちらの家庭でも一番欲しいと思う三つの電気製品のことを「家庭電化の三種の神器」と呼ばれていました。つまり、電化の三種の神器とは「白黒テレビ」「電気洗濯機」「電気冷蔵庫」のことでした。1950年代にはほとんどの家庭の憧れの的でした。
その当時夢の電気製品をはじめて使用された時の感動の記事がありましたのでご紹介します。


       家電製品に見る暮らしの戦後史 編者 久保正道  株式会社ミリオン書房より

電気洗濯機の思いで

          洗濯をほんとうに楽しんだ日々    平岩 弓枝(作家)

はじめて我が家に電気洗濯機が入ったのは大学三年のとき、円筒型でプロペラみたいな

翼がゴトンゴトンと動くごついもので、洗いが終わるとローラーにかけて手で絞り、新しく水

を入れてすすぎをすると言う、今から考えると結構手間のかかる代物だったのに、それま

でのタライに洗濯板の洗濯方法しか知らなかった私にはなんと便利な機械が発明された

ことかと、とてもうれしかった。

多分、私の洗濯好きはそこから始まったので、洗濯機の使い始めのころは、まだ洗わなく

ても良いものまでかたっぱしから洗濯機に放り込んで家族から苦情が出たり、洗濯物同士

がぐるぐる巻き付いているのを解く際に大事なストッキングを破いてしまったり、けっこう骨

折り損のくたびれうけをしながらも洗濯を楽しんでいた。

勿論、全自動式になった現在は洗濯大好き人間であるけれども、五年ほど以前にトルコ

のアナトリアの田舎を廻った折り、川っぷちで、かっての洗濯板方式で洗い物をしている

トルコの女性たちを見て、ある種の懐かしさと同時に、将来、何かで私たちがタライに洗

濯板の時代を迎える事になったとして、それにたえられるかどうか、まことに不安になった。

俗に三種の神器と呼ばれる家庭電気製品の中、一番最後に買ったのは、電気冷蔵庫で

あった。たいした理由ではなく近くに氷屋さんがあって長年のなじみであり、四季を問わず

まめに届けてくれるので、旧式のもので不自由しなかったせいだったと思う。

昭和34年に直木賞を受賞したときの賞金10万円で、私は電気冷蔵庫を買って母にプレ

ゼントした。と言えば世間体がいいけれども、実を言うとその少し前に友人宅でピカピカの

電気冷蔵庫を使ってアイスクリームを作ってもらって食べたのが、やみ付きになってと言う

のが真相である。


電気がまの思いで

          粘って、値切って,月賦で買った   庄司 歌江(女優)

初めて電気がまを買ったのは、昭和37年。ちょうど30歳の誕生日を迎えた何日か後に、

近所にあった電気屋さんで買いました。はっきりしたお値段は覚えていないけれど、ナシ

ョナル製で白い大きな電気がまでした。頑丈なつくりで、内がまの部分が肉厚で手にずっ

しりと重かった感触の記憶が残っています。

昭和35年ころに電気がまが出回ったようですが、けっこうお値段が高かった。私たちにとっ

ては、手に入れるのにはちょっとした勇気がいる値札がぶらさがっていました。それこそみ

んな「一生使うんだ」という気持ちで買っていたのではないか。すくなくとも私はそうでした

台所を掃除するときは、まず最初電気がまをキュッキュッと磨いたものです。ずいぶん値

切って買ったはずだと覚えています。お店の人が「あんさんにはホンマかないませんなあ」

と音を上げるまで値切って、結局は「ほならその値段で分割払いにしてや」。

当時は、ちょうど「かしまし娘」が売れ出したころでしたが、まだまだお金に余裕が無くて、

何を買うにしても値切って買いました。もちろん今でも、値切るのは上手です。

大阪のテレビ局に勤めていた主人と一緒に、天王寺の近くの文化住宅に住んでいたころ

です。たしか家賃が4500円くらいだったか。ちょうど2畳くらいの台所がついていました。

舞台で忙しいときでも、ちゃんと食事の用意はしていました。夜はお互いの仕事仲間がた

くさん遊びに来てくれて、そんな時は早くご飯が炊ける電気がまに重宝しました。友人が

ワイワイ騒ぎながら食事をするのが、本当に楽しい頃でした。

当時のメニューなんて、簡単なもので、白いご飯、お味噌汁、それにおしんこがあればご

馳走です。たまに贅沢をして、豆ご飯をつくるくらい。終戦直後みたいにミジメではなかっ

たけれど、それでもまたまだ白いご飯があれば幸せだった時代でした。グルメなんてとん

てせもない、縁遠いものでした。

あのころの電気がまは、底のほうにきれいなオコゲができてそのオコゲがまたおいしくて、

おにぎりにしたり、お茶漬けにすると最高でした。よく主人と取り合いしながらオコゲを食

べたものです。

電気がまの思いではこのオコゲの味につきるかもしれません。

  


我が家に電気洗濯機が入った日

           と一緒に心まで洗ってくれた 天野 祐吉(コラムニスト)

 我が家に電気洗濯機がやって来た日、ねえ。おぼえてないなア。

でも、電化製品の中で一番早いということは無かった。たしか、三番目に買ったんじゃない

かと思いますよ。

 トップバッターは、テレビだった。これはハッキリおぼえていますね。いろんな電化製

品の中でも、テレビが心理的に一番近いところにあったからね。

ホラ、ものと人間の心理的距離っていうのがあるんでしょう。欲しいものほど、距離が短い。

テレビなんて、そういうイミでは、もう目と鼻の先にあったもんね。

もっとも、その距離は人によって違う。女房にとっては、たぶん掃除機や冷蔵庫や洗濯

機が一番近いところにあって、その向うにテレビがあったんじゃないかと思いますよ。

 で、こう見えても、当時のぼくはけっこう亭主関白でしたからね、「洗濯機なんて、子供

が出来てからでいい」とかなんとかリクツをこじつけて、まず、テレビを月賦で買っちゃった

男なんて勝手なもんですね。

 それから、冷蔵庫です。これにはワケがありましてね。1956年だったと思うけれど、こん

な広告が新聞に出てたんです。「おとうちゃんビール!急いでおうちへお帰りください。可

愛い坊やとやさしい奥様、ナショナル電気冷蔵庫には冷たいビールが待っています」

これはショックでしたね。当時は冷たいビールを飲める場所と言えば、ビアホールくらいし

かなかった。でも、ビアホールなんて高級なところへは、ぼくら安サラリーマンはとても行け

なかったね。なんとしても、これは買わずにおくものか、という気になっていたんです。

 で、その次が洗濯機だったと思います。当時は木暮実千代さんという、ちょっとバタくさ

い感じの女優さんが、電気洗濯機の広告によく出ていましてね、電気洗濯機を買うという

ことは、そのままバタくさい生活を手に入れるという感じだった。

女房は、よろこんでいましたね。たいして洗うものもないんで、それほど汚れていないもの

まで洗濯機に投り込んでニコニコしていました。あれはきっと、木暮実千代になった気分だ

ったんでしょうね。

 うちの女房だけじゃない、日本中の奥さんたちの気持ちを、電気洗濯機はきれいに洗

ってくれたんじゃないですか。


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